新サレルノ養生訓 第12回 1部第6章-8章

サレルノ養生訓とは

イタリア料理が好きな方や、地中海式ダイエットに関心をもたれる方の中には、「サレルノ養生訓」という本があることをお聞きになった方もいることでしょう。サレルノは南イタリア、カンパーニャ州にある都市で、ナポリの南東50キロに位置する有名な保養地です。学問の地としての歴史は古く、八世紀にはヨーロッパ最古の医学校が創設され、広く病気療養、保養の人を集めて「ヒポクラテスの町」とも称されました。イギリスやフランスの王族も治療のためにこの地を訪れたと言われます。

そのサレルノ医学校の創設後、十一世紀末には医学校の校長を中心に小さな衛生学の読本が作られました。それは全編ラテン語の詩の形をとって書かれ、食を中心に入浴法や睡眠など、生活習慣に関する注意事項を予防医学の見地から、一般大衆にもわかりやすく解説したものでした。

これが「サレルノ養生訓」です。現代イタリアでも、ある年齢以上の世代では、幼少時より親からそのラテン語詩を聞かされて育った人がいるとのことです。サレルノ養生訓の原典は、十四世紀スペインの医師•哲学者であるビッラノーバが注解した360行のラテン語文とされ、その後増補されて最終的に3520行まで膨らみ、またサレルノ医学校の名声が上がると共に、英語、イタリア語、フランス語など各国語に翻訳されて、広くヨーロッパ中に流布しました。

カラカラ大浴場

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新訳サレルノ養生訓について

2001年に私が訳解した日本語版サレルノ養生訓(柴田書店刊)に用いたテキストは、1607年に刊行された英語版(通称ハリントン版、エリザベス一世に仕えた思想家ハリントン卿による英訳)です。この日本語版サレルノ養生訓は幸い多くの方に親しんでいただきましたが、再版のめどが立たず今日に至りました。そして数年前のこと、イタリア食文化に造詣が深い文流会長西村暢夫氏から、自身所持されるイタリア語版養生訓にハリントン英語版(2001年の日本語版)にない記載があることをお聞きし、併せてイタリア語版からの新訳を考えてはどうかという提案をいただきました。

英語版とイタリア語版の養生訓の記述に差異が生じたのは、養生訓成立に関わる複雑な事情があります。中世以降イタリア語を含めて主要な言語に訳された養生訓は、時代とともにラテン語原典の内容が膨らむことで異本や外典が生じ、次に各国語に翻訳される過程で、その国の歴史や時代背景からも影響を受けて訳者による異訳が生じたことで、各版の間で記述に違いが認められたと考えられます。ところで、ヨーロッパ食文化の二大潮流は、ギリシア•ローマ型とケルト•ゲルマン型に大別(M.モンタナーリ)され、このたびイタリア語翻訳者の森田朋子氏の協力を得て、ギリシア•ローマの流れを引くイタリア語版からの新訳が可能となり、出版前に当サイト上で少しずつ公開する運びとなりました。ハリントンの英語版との比較も興味深いところです。

今回訳者の森田氏は、新訳養生訓のテキストに現代イタリア語訳であるシンノ版(Mursia社刊)に採用されたラテン語(デ•レンツィ校訂によるラテン語完全版、3520行からなる)を用いています。1876年サレルノに生まれたアンドレア•シンノ博士は、博物学•農学を修め、科学教師や図書館員の職に就きながら、郷土史とサレルノ医学校の研究を行い、1941年サレルノ養生訓の注釈付き翻訳書を著しました。森田氏と私の間で協議し、今回の新訳にあたりシンノ氏の注解を参照しながらあくまでラテン語原典を尊重し、さらに時代とともに膨らみ豊かになった記載を盛り込んで、現代日本の読者により興味を持てる内容とすることを取り決めました。

以上、前置きが長くなりましたが、この11月から当サイト上に、新訳サレルノ養生訓を連載いたしますので、楽しみにして下さい。

ウェルネスササキクリニック 佐々木 巌

訳者略歴

森田朋子(もりた・ともこ)

京都市出身・在住。京都光華女子大学在学中、古典ラテン語を故・松平千秋教授に学ぶ。シエナ外国人大学にて第二段階ディプロマ(イタリア語・イタリア文学専攻)取得後、イタリア語翻訳・通訳業に従事。主訳書『イタリア旅行協会公式ガイド①~⑤巻』(NTT出版・共訳)。
解説者略歴

佐々木 巌(ささき・いわお)

ウェルネスササキクリニック院長、医学博士。専攻は内科学、呼吸器病学、予防医学。長年外来診療や講演活動を通じて地中海式ダイエットの啓蒙と普及にあたる。近著に地中海式ダイエットの魅力と歴史、医学的効果をわかりやすく解説した「美味しくて健康的で太らないダイエットなら地中海式」(大学教育出版)がある。

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第6章 性交の時期

春にはセックスが有効です。冬でも結構。

健康を願うなら、秋にセックスなさい。

(セックスの)1度目は食事を、2度目はセックスを味気なくし

3度目は光を奪います(死にます)。

節度をもってたしなまれるセックスは、寿命を延ばします。

その資格のある人にとってであって、そうでなければ、たいそう有害ですが。

第7章 排便・放屁・排尿

排尿は1日に6回するのが自然です。

同時に、自然なお通じは2回、または3回です。

仮に王様が通りかかられたとしても、排尿を止めてはいけません。

昔ながらの慣習により、排尿中の人は、おならをしても恥にはなりません。

大きな音を立てて放尿するのは腎臓にたいへんよいことです。

お腹を無理にしめつけてはいけません。古い音(屁)を閉じ込めることになります。

ガス(放屁)を我慢するのもいけません。古い病気を養うことになります。

第8章 入浴の仕方

もしあなたが病をのがれ、健康で暮らしたいなら、

以下の教えを守り、他の人にも教えなければなりません。

入浴後、空腹時、睡眠の後ですぐに飲酒しないこと。

頭に何もかぶらずに、寒い中を歩かないこと。

それから太陽の下でも。こうしたことはあなたの体に毒だからです。

カタル、頭痛、涙眼、潰瘍、外傷、

満腹、盛夏は入浴を禁じます。

気分が悪い時は、入浴は避けるのがよいでしょう。

食事の後の入浴は太りますが、食事前はやせさせます。

漬浴は太らせますが、熱砂浴はしばしば燃えるように熱くします。

満腹の時は、入浴は考えものです。

ですが食べたものが消化されてしまえば、風呂をつかいなさい。

もしあなたが視力を保ちたいなら、情欲に耽ったり、

風呂に行ったりした時に、書き物をしてはいけません。

食事をした直後の入浴はいけません。

飲酒もやめておきなさい、経験がよく伝えているように。

海水浴は体から多くの水分を奪います。

真水だと体をひきしめ、冷やします。

入浴(の湯)は温かくし、ただしその中に浸る時間は短くしなさい。

人体内の水分がその中の湯と触れ合ってはいけませんから。

解説

前回の睡眠のあとに房事の話が続くのはあながち意味がないとは言えないでしょう。これまでしばしば触れられてきたとおり、夏場のセックスは体力を消耗するので厳禁ですが、春や秋に節度を持って行われるのはよいと養生訓は教えています。単に情欲を満たすためのセックスは健康を害するけれども、甘美な情愛が満たされたあとに続く幸福感や安心感は、すこやかな眠りへと人を誘います。よい睡眠には脳の松果体から出るメラトニンというホルモンの働きが重要で、メラトニンは前回お話した生体リズムと関わり、日が暮れると分泌量が増えて、体温、血圧、脈拍などを低下させ、身体は健やかに眠るための準備を整えます。

さて、メラトニンは脳内の神経伝達物質であるセロトニンから合成されますが、もう一つの神経伝達物質、別名抱擁ホルモンと言われるオキシトシンからも影響を受けています。最近話題になるセロトニンはストレスなどでその分泌に異常をきたすと不眠やうつになり、逆に規則的な運動、日光浴、人との触れ合いによって分泌が促され、うつを予防することがわかっています。一方、抱擁など肌の触れ合いで強く分泌が促されるオキシトシンはストレスを緩和し、セロトニンを活性化してメラトニン分泌を促します。これまで養生訓で語られた朝早起きの習慣、散歩や日光浴、節度をもった男女の営みは、こうしたホルモン物質を介して心地よい睡眠と深く結びついているのです。

規則的な排便、排尿習慣が健康にとって大事だと考えられたのは、今も昔も同じこと。四体液説を信奉する古代の医学では、便や尿を規則正しく排泄することは、体内の有毒な体液を浄化するために必要と考えられました。ところで、放屁については愉快なエピソードが旧サレルノ養生訓の第4話(放屁の勧め)にあるので、それを引用します。

──我々には語るにふさわしい話があって、とあるローマ皇帝が親切にも声明を一つ出したそうです。その名をクラウディウスというのですが、おならをしても、名誉を失うことにはならないとね。豪華絢爛な晩餐をとれば、胃がひどくやられますし、安らかに眠りたければ、食事は軽くすますことです。──

古代ローマ時代、皇帝クラウディウス一世は時と場所を選ばずに放屁することを正当化する声明を出そうと思いつきました。ローマの伝記作家スエトニウスによると、この皇帝は青年期まで病弱で、皇帝になってからは胃が悪く苦しんだとのこと。ところが無類の饗宴好きで深夜まで暴飲暴食に耽っていたわけですから、これは自業自得というものでしょう。そしてある宴席で放屁を我慢して危険に陥った客人を目撃し、食事中でも放屁をしてもよいという声明を思いついたというのです。本来なら摂生をして胃腸をいたわってやることの方が大事なのでしょうが・・・

第8章では、飲酒、睡眠、入浴、帽子の効用が語られます。寒さや直射日光から頭を保護するために帽子を着用する習慣は昔からあり、就寝時に帽子をかぶる習慣も最近まであったようです。飲酒については空腹時、入浴後、就寝後はかたく戒められ、お酒はあくまで食事中に飲むことが正しい飲み方ということ。入浴後の飲酒は脱水を助長しますし、寝酒は睡眠の質を高めず有害であることはよく知られるところ。熱砂浴はあまり聞きなれない言葉ですが、サウナ風呂を思い浮かべてください。古代ローマ時代に造られた公衆浴場は健康増進と疲労回復を名目とした社交場であり、貴族、庶民を問わず全てのローマ市民の憩いの場でした。浴槽には四体液理論に基づいて、高温浴槽、低温浴槽、高温サウナ風呂、低温サウナ風呂の四種類の浴室があり、医師の処方によって浴室を使い分けたのです。時代が下って新養生訓ではそこまで言及せずに、食事と飲酒、肥満、季節との関係から入浴の注意点を述べています。

※新サレルノ養生訓の無断転載及び引用を固く禁止します。