新サレルノ養生訓 第15回  9章 5.飲み物について 6-10

サレルノ養生訓とは

イタリア料理が好きな方や、地中海式ダイエットに関心をもたれる方の中には、「サレルノ養生訓」という本があることをお聞きになった方もいることでしょう。サレルノは南イタリア、カンパーニャ州にある都市で、ナポリの南東50キロに位置する有名な保養地です。学問の地としての歴史は古く、八世紀にはヨーロッパ最古の医学校が創設され、広く病気療養、保養の人を集めて「ヒポクラテスの町」とも称されました。イギリスやフランスの王族も治療のためにこの地を訪れたと言われます。

そのサレルノ医学校の創設後、十一世紀末には医学校の校長を中心に小さな衛生学の読本が作られました。それは全編ラテン語の詩の形をとって書かれ、食を中心に入浴法や睡眠など、生活習慣に関する注意事項を予防医学の見地から、一般大衆にもわかりやすく解説したものでした。

これが「サレルノ養生訓」です。現代イタリアでも、ある年齢以上の世代では、幼少時より親からそのラテン語詩を聞かされて育った人がいるとのことです。サレルノ養生訓の原典は、十四世紀スペインの医師•哲学者であるビッラノーバが注解した360行のラテン語文とされ、その後増補されて最終的に3520行まで膨らみ、またサレルノ医学校の名声が上がると共に、英語、イタリア語、フランス語など各国語に翻訳されて、広くヨーロッパ中に流布しました。

サレルノ市にある水道橋の遺跡

サレルノ市にある水道橋の遺跡

新訳サレルノ養生訓について

2001年に私が訳解した日本語版サレルノ養生訓(柴田書店刊)に用いたテキストは、1607年に刊行された英語版(通称ハリントン版、エリザベス一世に仕えた思想家ハリントン卿による英訳)です。この日本語版サレルノ養生訓は幸い多くの方に親しんでいただきましたが、再版のめどが立たず今日に至りました。そして数年前のこと、イタリア食文化に造詣が深い文流会長西村暢夫氏から、自身所持されるイタリア語版養生訓にハリントン英語版(2001年の日本語版)にない記載があることをお聞きし、併せてイタリア語版からの新訳を考えてはどうかという提案をいただきました。

英語版とイタリア語版の養生訓の記述に差異が生じたのは、養生訓成立に関わる複雑な事情があります。中世以降イタリア語を含めて主要な言語に訳された養生訓は、時代とともにラテン語原典の内容が膨らむことで異本や外典が生じ、次に各国語に翻訳される過程で、その国の歴史や時代背景からも影響を受けて訳者による異訳が生じたことで、各版の間で記述に違いが認められたと考えられます。ところで、ヨーロッパ食文化の二大潮流は、ギリシア•ローマ型とケルト•ゲルマン型に大別(M.モンタナーリ)され、このたびイタリア語翻訳者の森田朋子氏の協力を得て、ギリシア•ローマの流れを引くイタリア語版からの新訳が可能となり、出版前に当サイト上で少しずつ公開する運びとなりました。ハリントンの英語版との比較も興味深いところです。

今回訳者の森田氏は、新訳養生訓のテキストに現代イタリア語訳であるシンノ版(Mursia社刊)に採用されたラテン語(デ•レンツィ校訂によるラテン語完全版、3520行からなる)を用いています。1876年サレルノに生まれたアンドレア•シンノ博士は、博物学•農学を修め、科学教師や図書館員の職に就きながら、郷土史とサレルノ医学校の研究を行い、1941年サレルノ養生訓の注釈付き翻訳書を著しました。森田氏と私の間で協議し、今回の新訳にあたりシンノ氏の注解を参照しながらあくまでラテン語原典を尊重し、さらに時代とともに膨らみ豊かになった記載を盛り込んで、現代日本の読者により興味を持てる内容とすることを取り決めました。

以上、前置きが長くなりましたが、この11月から当サイト上に、新訳サレルノ養生訓を連載いたしますので、楽しみにして下さい。

ウェルネスササキクリニック 佐々木 巌

訳者略歴

森田朋子(もりた・ともこ)

京都市出身・在住。京都光華女子大学在学中、古典ラテン語を故・松平千秋教授に学ぶ。シエナ外国人大学にて第二段階ディプロマ(イタリア語・イタリア文学専攻)取得後、イタリア語翻訳・通訳業に従事。主訳書『イタリア旅行協会公式ガイド①~⑤巻』(NTT出版・共訳)。
解説者略歴

佐々木 巌(ささき・いわお)

ウェルネスササキクリニック院長、医学博士。専攻は内科学、呼吸器病学、予防医学。長年外来診療や講演活動を通じて地中海式ダイエットの啓蒙と普及にあたる。近著に地中海式ダイエットの魅力と歴史、医学的効果をわかりやすく解説した「美味しくて健康的で太らないダイエットなら地中海式」(大学教育出版)がある。

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  • 6 水を飲むこと

食事中の人にとって、水を飲むのは体にたいへん悪いことです。

胃が冷えるので、食べ物が消化されないのです。

もしも喉が渇くのなら、満足が得られるまで、渇きがあなたを

苦しめなくなる程度まで飲みなさい。

満足が得られるまでであって、過剰に、ではありません。

分別の配慮に従って、です。

水は清浄な大気のように明るく輝いて流れるべきで

甘美で、重さはごくわずかで、冷たくあるべきです。

また、ひそやかに流れ、澄みきって、澱のまったくないものがよろしい。

無味で、いかなる匂いからも無縁であるべきです。

すみやかに冷え、かと思えばわずかな火で煮えたぎり、

有用でなおかつ固い豆を煮るのに適している、

そんな水を私に誰かがくれたならば、その時は、ワインの

香り高き杯よ、さらば。極上の水は生(き)の酒に勝るのですから。

過度に水を飲むと胃も食べ物もかく乱されます。

体がほてって喉が渇いた時は、流れの水を飲むことです。

炎暑の時期には、控え目に冷やした水が供されるべきです。

何にもまして体によいのは、雨水です。飲む人を幸せにし、

よい具合に分解しまた溶解します。

東の方角へ流れる水はよい水です。

南の方角へ向かう水は誰にとっても有害です。

  • 7 吐き気を和らげる飲み物

海水とワインを混ぜたものをあらかじめ飲んでおいた人を

吐き気が苦しめることはありません。

  • 8 ワインの効果

ワインが新しいと、胸に及ぼす熱はさらに大きくなります。

排尿を促し、頭に害を(頭痛のことらしいです)もたらします。

ワインは何であれ、おしなべて体を温めますが

黒いワインの方が、飲んだ時に酔いが早く回ります。

腹は秘結し、腸は焼けて傷つきます。

  • 9 マスト(発酵中のブドウ果汁)

マストには利尿効果があり、たちまち腹がゆるくなり膨れます。

肝臓と脾臓を詰まらせ、さらには石をもたらします。

  • 10 ビール

ビールは酸っぱくなく、明るい色をしていて

健康な穀粒から仕込まれ、十分に熟成させたものがよろしい。

これは飲んでも、そのために胃が圧迫されたりすることはありません。

ビールはねっとりとした体液を生み、

力をつけ、肉づきをよくし、血を造ります。

利尿効果があり、腹は緩くなって膨れます。

解説

この回の養生訓では、水とワイン、マスト(ブドウ果汁)、ビールが語られます。水に特別一章を設けているのは、人間にとって水がいかに大事かということの表れです。ワインと異なり消化の足しにはならず、食事中に水を飲まないよう忠告していますが、本当によい水が手に入ったら、「香り高き杯よ、さらば。極上の水は生の酒に勝る・・・」とあるとおり、ワインより水に軍配があがります。中世都市の衛生生活環境は劣悪だったと伝えられます。一般庶民が良質の水を手に入れることはことほどさように難しく、水道管を通る水でも水質汚染や異物混入の可能性がありました。それで雨水のほうが安全だという誤解が生じたわけですが、一方でよい水は不純物を含まないので軽く、また熱しやすく冷めやすいということはわかっていました。

暑い夏がやってきました。折も折、全国的に猛暑のさなか熱中症にかかる人が続出し、その予防にこまめな水分摂取が欠かせません。その理由は、大量の発汗などで脱水を生じると循環血液量が減って心臓が空回りし、体内部の熱のくみ出しが滞ることで体温を適正に保つことができなくなるためです。ところで、夏は食欲不振、腹痛、下痢など胃腸障害から脱水を起こしやすい季節でもあります。「炎暑の時期には、控えめに冷やした水を飲むことです」という文言には、納得される読者の皆さんも多いのではないか。冷房の効いた部屋でむやみやたらに冷たい水を飲んでいたら、冷えから胃腸障害をおこすのも道理です。私の患者さんにも一年通して冷たい水は飲みませんというご婦人がいて、感心させられることしきりです。

そうは言っても、夏はよく冷えたビールの美味しい季節。今日飲まれるホップと炭酸の利いた喉越し爽やかなビールと異なり、昔のビールはドロリとした飲み物でした。ビールの歴史も古く、紀元前5000年の古代バビロニア(現在のイラク)、チグリス・ユーフラテス川の沿岸地方でビールを造っていたという記録があり、紀元前2000年のエジプトではビール醸造の記録が壁画に残されています。麦や酵母を多く含んだ当時のビールは滋養に富んだ飲み物として、ピラミッド建造に関わる労働者の栄養補給にも役立ちました。養生訓が生まれたヨーロッパではビールはゲルマン人の飲み物とされ、古代ローマの歴史家タキトゥスは、ワインと比べてビールは品位の下がる飲み物と酷評しました。そのローマの遺産を受け継ぎ紀元800年に西ローマ帝国皇帝に即位したゲルマン人の王カール大帝は、ローマ的規範に従って節度ある食事を守っていましたが、ゲルマン的食習慣を捨てることはできなかったようです。「カール大帝伝」を著した伝記作家アインハルトによると、痛風持ちだったカール大帝はビールを好み、医師より禁じられていたにも拘らず、好物のロースト肉を止められなかったとのこと。

※新サレルノ養生訓の無断転載及び引用を固く禁止します。